最近はあまり使われませんが、子どもの将来を嘱望する表現として「末は博士か大臣か」という言葉がありました。
博士(学者、医者、有識者)や大臣(政治家)は公のために尽くす素晴らしい職業、という認識から生まれた言葉でしょうが…コロナ騒動で社会を空転させたり、安定した皇位継承の実現を率先して邪魔したりして、最も公を毀損しているのがこの属性の者たちという全く笑えない現実。
トッキーさんが書かれていた「間違ってどっかの知事になっちゃった人」なんて、学者出身の政治家という二冠王ですものね。
「末」という字は、堕落がきわまった「なれのはて」と読むのかもしれません。
そして、そうした権威・権力を監視すべき存在でありながら、逆に「最もタチの悪い権力」となって大衆を扇動する存在になっているのがマスコミ。これも「憧れのギョーカイ」の筆頭格でしたね。
当然、これらの職業の中にも志を持って職務にあたっている人もいるのは理解した上で、同時に堕落の三位一体とでもよぶべきグダグダさを招いてしまっているのは何故か?
それは割と明白で、「社会的ステータスが約束される」これらの界隈では、悩み抜いた末に「正解を切り拓いていく」タイプよりも、「間違えずに〝手続き〟をこなして行く」タイプが多くなってしまっています。
だから、選挙基盤の弱い政治家が、思いも想いも感じられないのに保守ぶりっ子のためにゴリゴリの男系固執を唱えたり、
社会の健全性を保つよりも、自己や業界団体の利益のためにセンモンカという立場をことさらに濫用したり、
「文化事業」の名の下に放送電波や再販制度の恩恵を受けながら、裏取りさえせずに情報をたれながして文化を破壊するメディアといった堕落が生じる。
本来(尊敬や信頼に裏付けられた)ステータスは、誰でもができる事ではない創造や決断を、自己の存在をかけて挙行する人にこそ抱かれるものです。しかし、そうした素養を持つ人物こそ、キャンセル・カルチャーの断頭台に送られる懸念までもがどんどん高まっている。
「末は博士か大臣か」が、堕落と欺瞞に満ちた狭い利益世間の入場券を入手するための姑息なノウハウを示すようになったら、その国は既に精神的な意味で「寿命を迎えて」いるのかもしれません。